名前というのは不思議なものです。




名前というのは人物やもの、事象や行為などを区別するために便宜的に作られたものだと何かに書いてあった気がします。


例えば、ペンを「ペン」と呼ぶことで人はそれを「ペン」だと認識しています。


「名前」という記号を付けなければ、人は共通の概念を共有したり、表現したりすることができないのです。









ものすごい反抗期の人がいたとします。


社会のルールなんてクソ食らえ。


他人の言うことなど気にしない人がいたとします。






仮にその人が「カレー」のことをなにげなく「カレー」と呼んでしまっている自分に気付いたらどうでしょう。


気付かないうちに社会からその食べ物を「カレー」と呼ばされていることに気付いてしまったらどうでしょう。





社会に歩調を合わせたくない彼は苦悩します。





そして・・・。









彼は次の日から「カレー」のことを「みつまめ」と呼ぶことにしました。














「みつまめ下さい。」













彼がレストランでそう注文した時、出てくるものはもちろん「カレー」ではありません。











う〜ん、実に不思議。










第一にして、「カレー」はどの瞬間に「カレー」になっているのか。





最初は、「じゃがいもという名前の何か」や「たまねぎという名前の何か」、「動物といわれる種類の何かの一部を切り取った何か」などを煮込むわけじゃないですか。





それに、「ルーと呼ばれる大柴ではない何か」などを入れていつの間にか「カレー」と呼ばれているじゃないですか。









その「何か」の集合体がどの瞬間に「カレー」に変わるのか。




無知なオレには知る由もありません。













オレが作る「カレー」も「カレー」。



一流シェフが作る「カレー」も「カレー」。



おいしさは格段に違うのに同じ「カレー」という呼び名で呼ばれます。







調理をする人が同じ人間で、同じ手順や材料で作ってもできあがった「カレー」の味は均一ではありません。







正確に言うとその名前が表すものというのは全く別のものであったりもするわけです。










それでも、人間は「カレー」を「カレー」と呼んでいます。











結局、ものの名前に付随している様々な特徴をある程度あいまいにしないとそこにあるものを表現しきれないからです。













でも、人の名前は違います。










世界中にYUSICという名前が表現している人物は一人しかいません。



確かに、同姓同名は存在するでしょうが、それはただ発音や表記の仕方が同じだけなのです。



その人の名前があらわしているもの。



それは、その人の顔であり声であり。



その人の生き方であり人生そのものでもあります。



でも、その人でしかない。



その人が持っているもの全て。



あいまいなものなど何一つない。



時間軸だって関係ない。



過去も未来もひっくるめてYUSICはYUSICただ一人なのです。








オレと同様にこれを読んでいるあなたにも名前があるはずです。










世界に一つしかないあなたの名前はあなたが確かに存在していることを教えてくれます。





自分が確かに生きているという奇跡を名前が証明してくれているのです。











好きな人の名前、友達の名前、家族の名前・・・。









あなたはそれらの名前を呼ぶことで、別の確かな存在を感じられるはずです。
















こうして考えると、名前と名前が呼び合うということは、実に刹那的であり運命的なことですよね。





一つ一つの出会いがすごく貴重に思えてきますよね。





















あなたの「名簿」は今、何ページ目ですか?




















小学生の頃、腹痛が襲ってくると「鈴木亜久里」と連呼してました。
そのおかげで腹痛が収まった経験がありました。
オレがなぜそんなおまじないをあみ出せたのかは今でもよくわかりません。
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